登米市登米町は宮城県の北東部に位置し、市街地の東端を北から南に北上川が貫流し、北上川を挟んで東は山地、西は田地が開けています。東の北上山地から羽沢川が西流し、母なる大河北上川に合流し、町の東北と南面は北上山系に属する山地で、その間に登米の市街地が形成されています。
中世は葛西氏の城下、近世は伊達一門の居館の地で、今もその名残を随所にとどめています。江戸期の登米は寺池、日野渡、小島、日根牛の4か村から成っていたものを、明治6年に合併して登米村と称しました。その後、明治12年(1879年)11月、日根牛村を分離しましたが、明治22年(1889年)4月に再び日根牛村を合併し、町制を施行して登米(とよま)町となり、今日に至っています。
国語学者の大槻文彦博士は、『復軒雑纂』(ふっけんざっさん・明治35年〈1902年〉発行)に、「続日本紀の宝亀5年(774年)10月の条に見えた、蝦夷の巣窟陸奥国遠山村とあるが、後の登米郡の地であろう。遠山村はもとより蝦夷語の当て字であろうが、遠山は『とよま』と同音である」と述べています。このことから、遠山が「とよま」の語源とされています。
また、承平元年(931)の『和名類聚抄』(わめいるいじゅしょう)に「登米郡は、登米・行方の二郷あり、登米は止与米・行方は奈女加多と訓む」とあります。登米(とよま)郡には2つの郷があって、さらに郷も複数の村で構成されていました。村を里(り)とも呼んでいました。
止与米や奈女加多は古代中国・漢の時代に文字を輸入したので漢字と言いますが、その文字を日本独自で使い方を考案し、仮名として「止」を「と」、「与」を「よ」、「米」を「ま」と読むようになり、さらにこれを崩して崩して、今の仮名文字が出来たと言われます。この止与米の文字を仮名文字の元字「母字」(ぼじ)と言います。
止与米・奈女加多は現在の仮名ですので、「とよま」・「なめかた」と訓みます。仮名と読むのに対して、漢字として読む文字は真名(まな)と言います。当時の文献を読む場合、同じ文字を読むのにも真名(漢字)か仮名の選択は非常に難しいところですが、和名類聚抄にある登米は「とよま」と読むことができます。